久々に、大学をやめようと決意した日を思い出した。
あの日はなんだか突然死神が現れたということにしているが、実際はいろいろなことが起こっていた。
とても仲のいい友達がいた。そいつも本当にやりたい事があるけど大学が忙しくてなかなかできなかったり、漠然とした将来への不安を抱えていた。
大好きな趣味の話をしたり、大学や世間の理不尽なところとかおかしい点を言い合うのが好きだった。
お互い深くかかわっていくうちに、躁鬱なところがあると知った。
友達のほうが俺よりも何倍か激しい躁鬱に見えた。
精神科には通ってるらしいが、簡単なカウンセリングとお薬をもらうだけで改善しているのか甚だ疑問だった。
俺は自分探しに明け暮れていた。面白そうなところや行きたい国に行くことで自分を見つけようとした。
一緒に山奥に行って自然を感じ行ったりもした。
しかしそれはひと時の気休めにしかならなくて、精神的な不安定さは消えなかった。
友達は不安定さがかなりひどくなり、幻覚や幻聴、はげしい妄想に悩まされていた。
二重人格を疑ったり、様々な精神病をうたがわれた。俺もそれはさすがに療養したほうがいいと思った。
その後友達は療養を始めた。
ほんとうは大学もバイトも全部やめた方がいいと思った。それほどに自分の心を度外視しているように見えた。
しかし、それは周りには伝わっておらず、心を許している俺には打ち明けてくれた。
絶対に嫌なことなのに、なんで辞めないんだろう。
このままでは命まで奪われてしまうじゃないか。
話は変わって、俺には山奥のゲストハウスで出会った韓国の友達がいた。
出会って意気投合してメールを送り合う友達になった。
彼とのメールもこの時期くらいに、滞った。
彼が仕事のストレスで明らかに精神的に参っていた。
田舎に住んでじぶんらしく生きていけたら楽しいだろうに。
どうしてこうも人は自分が憎んでいる、苦しくなる道を選んでしまうんだろう。
コロナで世界が大混乱になる3か月前、俺は自殺衝動にかられた。いわゆる「死神が現れた」状態だった。
そして気づいた。
「嫌な道であるはずが、その道を選び続けているのは、自分の事じゃないか」
そして周りを見渡した時、なんとなく「本当は抜け出して、もっと自分らしく生きたいけど、それをしていない人」であふれていると思った。
まず俺が、自分が望んでいない選択を、人生から逃げる道を選択するのをやめて、人生に向き合う選択をしないと、俺の周りの人たちも変わることができない。
まずは俺が、自分らしく生きていこうよ。
俺が俺らしく楽しく生きてたら、みんなその道を選んでくれるに違いない。
俺が苦しんで生きていたら、うつになってでも大学に行って、自殺衝動に駆られた方がいいことが証明できるし、それはそれで面白いじゃないか。
そんな気持ちで、周りがやらないならまず俺が。という気持ちで大学に行くのをやめた。
今はしっかり療養でき、たくさん本を読むことでかなり改善してきた。
哲学や文学が良い。心を救ってくれる文章に触れた。
そうして久しぶりに音楽が楽しくなった。
心が健康になって初めて音楽が楽しくなるんだね。
今日韓国の友達から久々のメールが。
大学辞めてジョージアに行ったこと、全部話していた。
コロナの影響で自分と向き合った結果、仕事をやめて田舎に移住したいと考えるようになったそうだ。
それも、俺の行動を見て勇気づけられたそう。
ジョージアに行こうかな、なんて。
すごくうれしかった。
これからも俺は俺らしく生きていこう。
今日、大学の友達から久々の電話があった。
躁鬱はさらに悪化し、本格的な統合失調になったそうだ。
身体と同じで、あまりにもぶち壊されすぎたら心も元に戻らない。
悲しみとよくわからない強い感情でいっぱいになってきた。
俺も一歩間違えば統合失調になってた。環境変えたらだんだん改善してきてる。
生きづらい人を救いたい、人生のミッションのうちの一つかもしれない。
しかし、その人生を変える選択をするのは自分自身だ。どうやってもそれを手助けすることはできない。
なぜなら、生きづらい選択をしているのは、自分自身だから。
そういう人たちを助けようと躍起になるのは違う。
まず自分が楽しく生きていくことが前提で、そのおまけとしてついてくるものだと思う。
そのうえで、自分に何かできることがあったら、全力で助けたい。
僕は文章に救われたから、たとえばこんな文章でも、ここに残しておくことでだれかを救うことにつながるかもしれない。