Life of Wildside

究極の自由とはなんだろうか。

生きている中で究極の自由を求めても、かならずどこかで不自由になっている。この言葉だって、言語の制約の中で自分の思いや考えを綴っていることになるのだから、突きつめたらきりがない。

究極の自由となるとき、それは死ぬときだろう。ふっと最近腑に落ちたことだった。

今日なんとなくメモを見ていたら、大学が嫌になって、生きるのがおもしろくなくなって、もがいていた時の文章を見つけた。

この自分の身体的、精神的な不自由を嘆いて、開放されたいという思いが綴られていた。死ぬことでしか達成できないと本気で思っていたんだろう。あのときは世界が狭くて狭くて、押しつぶされそうだった。どんなにお金を使っても、海外へ行っても、死にかけても、だれも、なにも、ぼくを開放してくれなかった。

ぼくを開放するにはぼくの意志を殺すほかなかった。一人部屋で静かに「さよなら」を告げた。

一番外側にある、最後の扉の前に立ったら、後ろを見たくなって、後ろを向いてみた。そこにはまだまだ様々な道があった。

みんなのよく言う人生の正しい道、普通の道の他に、人生の獣道があった。どれだけ不自由が付きまとっていても、僕はまだ生きていてもいいんじゃないかと気づいた。いやなら大学くらい辞めちゃえ、周りの言うことに従うくらいなら自分の心の声に従ってWildsideに飛び出しちゃえ。生きてたらいいさ。整備されている道ではないけれど、死ぬよりは不自由だけど、その先には誰も見たことない何かがあるかもしれない。

あの日思ったことを言語化することは一生できないと思うけど、こうしてふっと思い出したときに言葉にしてみたい。いまこうして笑って生きてられてる自分がいるのはあの日の気づきがあってこそだから。

相変わらず一か月先も見えないような生き方してるけど、心が喜ぶことをたくさんして、同じような獣道を行く新しい仲間もできて、元気に暮らしています。

どうせいつか死ぬんだから、究極の自由は一番最後の楽しみとしてとっておこう。究極の自由を謳歌するために、この不自由な生をゆかいな仲間たちと共に踊りながら生きていけたら、すごくいいな。今までかかわってきた人々、これから僕と関わっていく人々、ありがとう。そして、よろしくね。

 

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