
ディズニーランドに行きたいと思っている人がいたとして。
楽しくて、ずっとずっと居たいと思う。
じゃあずっとディズニーランドに居たらどうか?
生まれた瞬間からずっといたとしたら?
きっと感動は生まれてこない。
ディズニーランドに入って、出るからこそ、面白い。
出たから、嫌いになったわけじゃない。
それぞれの生活に戻り、しばらくは“無関心”である時間を増やす。
たまに思い出して、行きたいなと思う。
その緩急が、本当に楽しいのだ。
ラーメンも同じだった。
昨日、よく行くつけ麺屋で友達と話しながら思った。
たまに来るから、本当に楽しい。
毎日食ってしまったら、それはわからなくなる。
「あのラーメンを食い終わった後の寂しさ、いいよね」
好き、という感情はイベントに対して起こっている。面に対してとも言える。
人や具体的な物、場所に対して言うことができない。それらは様々な面を持つ複合的な存在であるから。
人なんか気分や環境によって変わるから。
じゃあ、ずっと好きではいられないはずだ。
じゃあ嫌いになる?
違う。
好きの反対は嫌いではない。
無関心だ。
好きな時間だけではなく、無関心な時間があってもいいじゃないか。
近づきすぎたら、一旦自分を見るために無関心になってもいいじゃないか。
自分らしさがある状態こそ、人は輝き、魅力を放つのだ。
そんなあなたが好きだと言っているのだ。
好きになったり、無関心になったりして、緩急を楽しんでいける関係でありたい。
そんな器用な事できない?
器用なことではないと思う。
恐れず、シンプルに、自分の感情に耳を澄ましていればいい。
そうすれば、自然に緩急をつけられる。