
自分以外の中にある曖昧なもの。
その根拠は?論文は出ているの?客観的な判断はできてる?
曖昧なもの、例えば相手の気持ちなどは、自分では想像が出来ないという、客観的事実--論文などの権威や社会的証明--で思考を止めて、自分の気持ちに耳を傾けるようにしている。
相手とのコミュニケーションを円滑に行いたいなら、そうする事が長期的に見て最も効果的な対策だから。
自分の感覚が本当に思っていることを言いあえる関係が欲しいから。
考えても意味がないことに時間を割く必要はないと割り切るのだ。
曖昧なものを感じようとして、多くのバイアスにかかっていく。
私は色々な事を考えてしまうから、昔からよく「ぼんやりとした不安」に襲われていた。
ちょっとストレスがあるだけでぶち壊れるような心の構造だった。
脳で常に警報が鳴っていて、生きたくない日もあった。
そんな私を救ったのは、言葉、知識。具体的には心理学。
物理学と数学を専攻している私にとって、心理学の知識は全く新しい。
しかし、証明のやり方や構造が物理学に似ているようで、すんなり頭に入ってきた。
彼は私に器用に不器用になる方法を教えてくれた。
現代を生き抜くための最強の武器だと思った。
器用に不器用を作り、生きてる。
嫌われる勇気を持って、幸せになる勇気を持って、覚悟を決めて、あなたに私は本当に思っていることを言う。
不器用すぎるストレートな言葉しか出てこない。もっと他にあっただろうと思う。
器用に、何も思わないで、適応して、頷くこともできたのに。
器用に不器用になって、前に進む。
前にすすんだらほら、どんどん新しい世界が見えてきたよ。
見てよ!と言った先に、誰もいなくなってたりする。
孤独。
いいねえ、まだ前に進もう。
器用に不器用に生きる
曖昧なものを避けながら曖昧な音楽を作る
矛盾だらけで苦しいくらいが丁度いい。