今日はひたすら弟について考えた。

彼について考える事が、今の自分を見るために必要だと感じた。

祖父母の家に、ヨーロッパのお土産話をしに行った。

そこで、弟の話や親の話の昔話をした時にハッと気づいた事をまとめようと思った。


弟は4つ下で、小さい頃はとても元気な子だった。

よく笑って、変なこと言う子だった。

漫画が好きで、よく漫画を書いていた。

その漫画を僕は楽しく読んでいた。

カードゲームも自分で作ってたなぁ。

そのルールに従って僕もカードを作って追加していた。

変な歌も歌っていたな。

とにかく色々な感性が豊かな子だった。


小学生になって、勉強が苦手な事が分かった。集中力が続かなくて、所謂問題児になっていた。先生からも、親からも集中力がない事が心配されていた。

だが、好きな事に関してはどっぷりと浸かる事ができるから、根本的に集中力が無いわけではない。

一度理解したら問題は解ける。そして好きな事に関する記憶力は凄まじいものだった。

ただ、学校教育というやり方と指針が、彼を伸ばすことに繋がらないというだけだった。

感性が豊かで、たしかに義務教育としての勉強できなくて成績は悪いが、彼は非常に知能が高いはずだ。

しかしそのせいで、自分がやりたい事、伸ばしたい事とかけ離れた方法を強いられる状態、つまり合理的ではない環境を強いられる事に耐えられなかったのだと思う。

この方法だったら、どう頑張っても自分を伸ばす事に繋がらないという事がはっきり分かってしまうのだと思う。

しかし、周りの圧力は容赦がなかった。

小学高学年から中学生まで、彼は様々な大人、親や先生にも、とにかく集中しろ勉強しろ、勉強ができなくて何になるんだ。と言われ続けていた。

僕は短期記憶が得意だったから勉強するフリをして高成績を残すのが本当に上手い。弟はド下手。そのため全ての親からの注意は弟に向かった。

彼も上手くやればいいのに、どれだけやれやれ言われてもひたすらに抵抗を示し続ける。

身体的な痛みが無ければ、泣きも叫びもしない。

もはや、わざとやっていないのだ、と言わんばかりの態度に、周りは感情を逆撫でされたように怒る。

彼は無になり、時の経過を待ち続けていた。

一日中、勉強しろと言われても抵抗する。

今になって考えると、自分の中の非合理的でない行動を許す事が出来ないという抵抗を表現する術が、ひたすらに抵抗を示し続けるしかなかったからだ思うと、心が苦しくて仕方がない。


しかし、それが何年も続けば、彼の心はどんどん沈んでいく。

あんなによく笑う子だったのに、こんなに塞ぎ込んでしまった。もう、漫画も描かなくなった。変な歌も歌わなくなった。

僕を笑わせてくれる弟はもういなくなった。

僕は苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて仕方なかった。

でも、それを表現する術も、自分が何に苦しめられているか分析するほどの自我を持ち合わせていなかった。


もう、言うのはやめてくれと、勇気を出して言った日を今でもはっきり思い出す。

「これは親子の問題だ。お前が口出しすることではない」

一日中、そして何日も抵抗し続ける事ができる弟だから、それはそれは家族全員が感情的になっていただろう。こう言ってしまう事も当然のことだ。

僕は、自分の感情を表現する術を持っていなくてただただ泣いた。苦しくて苦しくて仕方なかったのに、自分が何に苦しんでいるかも分からずにひたすら泣いた。

表現する術を持たないと言う事がこんなにも苦しい、こんなにも不自由な事なんだ。

弟もそうだ。

自分のやりたい事や集中出来ることが分かっていて、言語化はできなくとも、概念同士の繋がりとして、論理的に組み上がっていたと思う。

しかし、それを表現する術を持っていないという不自由で、全てを奪われてしまった。

くれぐれも勘違いして欲しくないのが、この話は周りが悪いやつだと言いたいのではない。

親とか先生が悪いと言いたいのでは全く以ってない。

むしろ、こんなに難しい彼に何年も付き合い続けてくれて、本当に本当に愛が溢れていると思う。

表現する事ができないという残酷な不自由と、それに気づいてくれる人が周りに居てくれなかった事が本当に残酷だったことと、そもそもそんな社会が人間であり、残酷だったと言う事を嘆きっぽく書いてみただけ。


このブログでよく書く内容だが、人と違っていると言うことは、理解されなくて生きるのが難しい。

例えば、様々な事を考えてしまうと言うのは、人が気づかない部分まで全部気づいてしまうので、共感を得られない。

大多数の人間が収まりやすいように、何も疑問を感じないように作られたシステムに合わなくなる。

もしかしたら、今の時代出なかったら、即殺されていたかもしれない。

でも今は、生きていかなければならない。

自ら命を絶つ人は、絶対自ら命を絶とうと思ってなんかいない。自然に、ぼんやりと休憩しようと思ったら命を絶っていたんだと思う。自分も少し経験がある。


昨日、僕は塾で問題児などと言われてしまっている子どもがいる状況に、猛烈に怒ってしまった。

思い返してみると、幼い日から見てきた弟を追い詰めた環境や社会や一般的な常識などに、猛烈に怒り続けて生きてきた。

弟が何年もかけて自分を失い続けたように、それを見続けた僕は何年も何でもない何かに怒りをぶつけたくて、ぶつけられなくて泣き叫んでいた。

人と違っている事を悪とし、ひたすらに圧力をかけ続けるこの社会に対して、返せ返せと言わんばかりに怒って怒って、でも表現する自由もなくて、自分の心をぶち壊していった。

次第に、自分をぶち壊したり、他人をぶち壊すのが楽しくて気持ち良くなった。

これが私を構成する一つの大きな要素であると、今日気づいて表現する事ができた。

今日はとってもいい日。

こんなにゆっくりと自分を見つける時間を作ってくれた両親と祖父母と恋人には本当に感謝しています。ありがとうございます。

これからも自分と向き合う事を辞めない。

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