人と居て疲れる条件についての考察と、マザーテレサ

以前、会話人数限界という題で人と一緒にいるとき、どうしてめちゃくちゃ疲れてしまうのかを勢いで考察して、たくさんの共感や意見をもらった。

しかし、書いた後にいろんな意見を聞いているとただ単に人数の限界があるという説明だけではしっくりこないなと思った。

今回はその続きの考察をしていく。


結論から言うと、会話に参加しなければならないという強制力を感じている時間が長いと、疲れると思う。

その強制力はほとんど自分で勝手にそう思い込んでいることが多い。

そしてその強制力は自分が「相手の中の正解を探そうとする思考」によって引き起こされていると思う。

これに至るまでに考えた事例を一つずつ挙げていく。


大人数で話しているときに疲れてしまうときについて。

これが起こるのはよく知らない人がいるときだと思う。

初対面で何をどう話せばよいかわからなくて、とりあえず相手の中の正解を導き出そうとして会話の強制力を自分で生み出している。

また、ゲームをしているときなど(特に人狼ゲーム)はゲームの性質上会話に強制的に参加させられているような気持ちになる。これも会話に参加しなければという強制力が影響して疲れる。

大人数の時の対処法は、ひたすらスマホ見たり会話に参加せずに別のことしたりすることで休憩して、自分が離せそうなときに入ってハ話す。

ただ、ゲームをしているときや、尊敬している人がいるとき、ほかの事していると失礼に値するときなどは回避できない。それが難しい。

前回着目していなかった一対一でも疲れてしまうということについて。

これも相手が良く知らない人だったり、自分が尊敬している人や仲良くなりたいと思っている人と話しているときにおこる。

同様にとりあえず相手の中の正解を導き出そうとして会話の強制力を自分で生み出しているから。

話を引き出したいと無理して話を引き出そうとすると、疲れる。これも自分で作り出した強制力のせいだ。

ここで初対面の人で、関係的にもそこまで深くなければ、適当に別の事考えて休憩すればいい。しかしそれが失礼に値したり、仲良くなりたい人だからいろいろ会話したいと思ってしまうようだったら結構大変になる。そこに自分が強制力を感じてしまったら、めちゃくちゃ疲れてしまう。

 


大切なのは「自分が」勝手に強制力があると思ってしまうというところで、相手が悪いとか相性が悪いというわけではないところ。

同じ悩みをもっている人がいるかもしれないし、それならなんとかしたいと思うと思うけど、これって仕方がないと思う。

個人的な話だが、僕はお父さんと話しているとき、「相手の中にある正解を探す」という癖が全く抜けない。だから、意識していてもめっちゃくちゃ疲れてしまう。

思考の癖というのはその人の育ってきた環境の中で固まったもので「こう考えるのをやめろ!」といわれても、モノを捨てるように簡単には捨てられないものだ。

だから対策できないというわけではない。

ここでマザーテレサの言葉を引用する。

もし本当に愛したいのなら、

ゆるすことを学ばなければいけません。

ゆるし、そしてゆるしを請うこと。

責めるのではなく、ゆるしますということ。

まず和解し、一致しましょう。

会話に勝手に疲れてしまうような自分をまずは自分で許しましょ。

そして、疲れてしまうんですって打ち明けましょ。ゆるしを請えばいい。

そして和解したらいい。

自分は自分のままで良いと、おもいます。


マザーテレサめちゃくちゃ名言多いから、しんどいときは声に出して読もうと思う。

 

独立したいなら、お金を考えよ

独立することを決心したなら、僕は暇である。暇であるということを自覚しよう。

暇だからボランティア活動をするのか?違う。

ボランティア活動をしても、一円も稼ぎ出せていないのである。

これから、自分の力で稼ぐ力をつけると決めたなら、まずは「お金」についての勉強をするべきである。

僕はお金についての知識がなさすぎる。自分がどれだけお金の上に生きてきているのかを知らなさすぎる。

知識として知っているというのは違う。お金を稼ぐことを体感するしか、本当にお金について知ることができない。

この社会に少なくとも足を入れて生活することを望むなら、泥水すすっても一歩ずつ歩んでいくしかない。

その覚悟が必要なだけ。

WOOP法則という、目標達成のための考え方のフレームワークがあります。

WOOPとは、願望「wish」と結果「outcome」、障害「obstacle」、計画「plan」の頭文字です。
この4つのステップをそれぞれ考え行動していくことで、目標達成ができるというのがWOOPの法則です。

目標を決めるとき、不安なことがあるときの解消によく使います。

さっそく使ってみます。

Q あなたの願いはなんですか?

ーA 働くこと、働かないことを自由に選べる。居場所にとらわれない生き方がしたい。

Q その結果、何を得られますか?

ーA 自由な生活、好きな人と、好きな場所で、好きなことをできる。

Q ではその結果にたどり着く過程で、障害になることはなんですか?

ーA 目指し始めたときのほぼ金なし生活をするための資金繰り。軌道に乗せるまでのモチベーション。

Q その障害を乗り越えるために計画を立てましょう

ーA まず、親にすべて打ち明ける。覚悟を示す。

今のアパートを退去するお金さえあれば、住居の費用が掛からず、とりあえずどこにでも住める。

いろいろ住みつつ、最低限の飯を食いながら勉強したり、生活したりできる。サイハテ、ゲストハウスヘルパー、その他少しずつ知り合いの場所へ行ったり旅をしながら勉強をする。ノマドワーカー。

マジで死にそうなときはクラファンをしてみる。

メモや考えたこと、アウトプットなどをすべてオンライン上にあげて、サロンのような場所にする。支援者を募る。お金の問題を解決したら、ちゃんとお金は返す。

 

 

 

聞いて!!ブログ、飽きた!!!!!!!!!!

ブログ書く気が起きない!

これはブログ飽きた症候群か!ちゃんと更新しているようでしていない!

いやだなー。自己コントロール力が失われているなぁ。太るぞ!!

と思っていたら、毎日ブログの師匠樋口さんがブログ飽きたvol2をアップしていました!やったぜ!(いっぱい引用しよう!)

ブログ、飽きた vol.2

毎日毎日、1円にもなってないのに、なんでこんなことをやっているんだろうという気持ちになることもあります。
いや、「なることもあります」じゃないか。
正確には「なってます」ですね笑

しかし不思議なのが、ここまで「面倒でたまらないこと」をやっているのに、
なぜか「嫌でたまらない」とは思いません。

この理由を考えてみたんですが、おそらくその答えはほぼ一択で、
「責任が無いから」です。

クオリティーに関しては言わずもがな責任なんてハナからありませんし、
なんなら、毎日アップしなくても、誰にも怒られません。
その中で、自分でアップしようと決めてるからやってるだけです。
この、「やらなくてもいいけど、なんか自分で選んでやってる」状態というのが、
フワフワと曖昧で脆いように見えて、実はめちゃくちゃ強いんじゃないかと思うときがあります。

たしかに、責任がないから「嫌でたまらない」ということはないです。やらなくてもいいけど、なんか自分でやってる状態が、無理やりですが、創作活動の形になっているんだとおもいます。

ちなみに、もし「24時キッカリまでにアップする」ルールじゃなくて、
「24時超えてでも寝るまでにアップする」というルールだったとしたら、おそらく絶対ここまで続いてないです。
その理由を説明しようと思ったんですが、マジでリミットギリギリなんで、このへんでおいとまします。おやすみなさい。

これ、僕は24時超えても寝るまでにアップする。ってルールにしちゃってます。自分でもこれだと何となくダメだと思います。

正確に言うと100日くらいまでは12時までだったのですが、ヨーロッパに行ったときに、時差の影響で12時を過ぎてしまいました。そこからしょうがないから寝るまでにかけたらいいや~、と考えるようになっていました。

タイムリミットが来ちゃってる樋口さんの書きたかったかもしれない続きを勝手に自分の意見で考えてみます。


寝る前に書く、というのは寝るという能動的な働きによる動きの前にブログを書き終わらねばならないということです。自ら進んでやるという感じです。ボールを投げるという感じです。

対して、12時までにアップするというのは外部から自分の動き(ブログ更新)を制限されるということです。受動的な働きによる動きといえます。ボールをキャッチするという感じです。

だからなんだということなのですが、ボールをキャッチするほうが投げることに比べたらエネルギーは少ないです。

ダイエットするぞ!と決めて、毎日筋トレを自主的にやるのと、毎日カロリーを抑えるようにするのでは、後者のほうが意志力のエネルギーは少ないと思います。自分の意志がどうであれ、ある程度食事はとらなければならないからとる。それをいつもより抑える。


筋トレきついから、カロリー制限をしよう!痩せたいならね!

行動指針とは何か

最近はやりたい事などあるけれど、なんだかすごく遠くて、いまから何をしても届かないような気分に陥ってしまっていました。

多分、普通に生きているだけでたまにそんな時期が来てしまうのでしょう。

そうなってしまったので、とにかく不安症対策としていろいろ書き出したり、目標を定めてみたり、DaiGoの動画をガンガン見直したりしました。

でも結局すっきりするのはこの記事を読んだ後でした。

樋口さんのブログで一番すきな「指針を定めよ」です。読んでも読まなくてもこの記事だけで読めるようにはしますが、一番下にリンクを張りますのでよかったらぜひ。

特に今回は以下の個所にかなり納得しました。

まず、目標を定めてないから、毎回何かを決断するために演算する。
その演算過程がシンプルではなく煩雑なので、迷う。間違う。一度出した答えを疑う。
それで、計画を立ててみたりします。
ややこしいことに、僕は苦手ながら計画を立てることもできなくはないし、知識として、大きなプロジェクトや人を巻き込んだプロジェクトは計画性が高いほうが上手くいきやすいことを知っているので、稚拙な計画を立ててみたりします。
ただ、そこに少しでもアラがあると、完璧主義である自分が顔をだし、100点満点をめざして軌道修正したくなってしまう。
そうすると、自分の中では完璧に立てたはずの計画にほころびが生じ、そうなると計画を実行するのが馬鹿らしくなってしまう。こうなると計画なんて意味をなしません。

僕も樋口さんと同じく、自分のことを「現場対応型」に近い人間だと思っています。計画よりもその場で物事に対応していくことを好むタイプです。もう一つのタイプを目標達成型と言っています。とにかく決めた目標に向かって突き進むタイプです。

このようなタイプの私ですから、今頭の中をぐちゃぐちゃにしている、何かを決断するための演算がまさにこの文章のような状態で回り続けています。

言葉にするのが難しすぎて歯がゆいですが、いつも現場対応していたから今の自分の力が最大化されているのに、突然、大きな目標をかかげて計画的に進もうと思っても、無理だという感じです。

人間は今までの成功体験などをもとに自分の未来を予測、計画することが普通ですから、今まで現場対応してきた様々な外的要因など加味して計画を立てることなど複雑すぎてやってられない~~と思ってしまいます。

自分の感覚に着目して判断を下し続けてそれが自分を作ってきたため、自分の感覚だけが中心であり、シンプルだった世界が、突然、外的要因や地球全体を加味した宇宙についてを演算して計画しなければいけないような気分になるというような感じ。

ああ、つたわるのかな、まあ自分の中で整理できたのでよいです。


こんな感じなので、じゃあどうするか、その答えが続きに書いてあってその通り過ぎるので、もうあきらめてそのまま引用したいと思います。

行動指針を定める

じゃあどうするか。

まず、目標、計画を暫定的に決める。
それで、そのあとに、その目標に向かうためにレールをしくのではなく、目標に向かっていきやすいベクトルの方向性を決める、です。
方向性が大きく間違ってなければいつか目標付近に着くでしょうし、そもそもレールがなく、目標も暫定的に決めたものなので、ピッタリ到着しなくてもいい。

ここでいうベクトルを具体的に言うと、行動指針を定めるということです。

ざっくりですが、目標達成型の人は、未来に目標値を定めて、そこに突き進めばいいと思います。
対して、現場対応型の人間は、自分の行動指針を定めて、その瞬間ごとにそれに従えばいいと思います。
じゃあ、自分の行動指針とはなにか。

ここが問題なんです。これが、おそらくずっと明確じゃないのです。いまだにわかっていません。
おそらく、現場対応型には、刹那しかない。「いま、ここ」しかない
ただただそれを繋げていくと線になり、それを積分すると資産や実績になる。
それを続けていくことになるんですが、指針がないと、もう迷いまくり、グラつきまくりなんです。

じゃあ、どうやったら行動指針を決められるのか?

 

僕が想像する一つの答えが、まずは自分を知ることです。

じゃあ、どうやったら自分を知れるのか。
それが、「自分の煩悩と徹底的に向き合う」ことです。
煩悩、つまりを道徳や美学を妨げる心の闇を知ることこそが、最も自分の心の輪郭を教えてくれると思っています。

ここでかなり納得しました。最近はまさに自分の煩悩と向き合うことを忘れています。小さいことですが、なんとなくコンビニチキンを食べてしまうことがあり、体重が増えたし、今やらねばならないことを後に回してしまうことが多い気がします。なにより、それに向き合うことも忘れた自分がいるから「気がします」なんだろうな。

ということで、2020年度の僕の抱負は「自分の煩悩と徹底的に向き合う」としました。
それにより、自分というモルモットが一体どんな心の動きを見せるのか。とても楽しみです。

ということで、2019年度の僕の抱負は「自分の煩悩と徹底的に向き合う」としました。
それにより、自分というモルモットが一体どんな心の動きを見せるのか。とても楽しみです。

引用元:

指針を定めよ

創作の基本を教えてくれたのは、ブレイクコアです

これはずっと思っていることですが、作れないと言う人はいつもゴミを量産してとにかく作ると言う事をしないのだ。

Breakcoreはここがすごくやりやすかったように思う。

たとえ作り上げるものがクソであっても、斬新で面白かったり、実際にクソと思って出しても非常に評価が良かったりもしてとにかく「作る楽しさ」をおしえてくれた。

作る楽しさを知ることで、作ることに慣れる。

作って発表する、駄作と言われるか傑作と言われるかはわからない。

駄作を世に出したら、間違ってることを言ったら、自分が一番苦しむことになる。

それを恐れるのか?苦しむのは当たり前だろう。

だから、次こそは外さないように、間違えないようにとあがく。

作品とはすべて、駄作覚悟で世に出したクリエイターの勇気の産物だ。

駄作をちょっとくらい出してしまっても、自分を許してやる大きさを持てと、教えてくれた。

大切な事を見ないため、目隠しして生きている

生きていくことが難しく感じるのは、大切な事を見ないように目隠しして生きているからではないのか?

ふと散歩しながら思った。

なぜ?という抽象化の目隠しと、何が?の具体化のレンズ。

すぐになぜ?でぼかしがちだけど、大切なのは何が?と問いかけて、行動することだと思った。

なぜ思ったのか、具体的なお金の話を挙げる。


買い物をしながら、必要なものを購入しているときを振り返る。

これも必要であれも必要で、でもお金がないなぁ。

健康的な食生活がしたい。でも、お金がないなぁ。

なぜお金がないのかなぁ。あれもこれも買うし、収入は変わらないし、うーん。

質問を変えよう。

何が、お金が足りないと思わせるのか。

お金がないなら、何がそうしたのか具体化する=支出を明確にする必要がある。

そっか、そもそもどのくらいお金がないのか、どのくらい使っているのか具体化できていないから、不安なのか。

まずはひと月の固定費用から一度整理してみよう。


思考の過程をそのままかいたけど、まさにこんな感じで、Whatの質問に変えたら途端に解決のための方向に向かった。

きっと地球を遊びつくすにはあまりにも人間の命は短いから

どのように旅をしても、それがあなたの思う道ならそれでいいじゃない。

僕はひたすらゆっくりと過ごす、何もしないをする旅が好き。人と深く話して、深いつながりを世界中につなげたい。

「世界を一周するならば、数十の国を回れ。たった数国程度で世界一周じゃあないよな」

なんていう人がいるらしい。それはその人の価値観であるから、それでも良いと思う。

しかし、僕はたくさんの国を見てきた人より、一つの国に何か月も、何年もいて、とにかくその国が好きなんだと語る人のほうが何倍も魅力的だと思う。


話は少し逸れるが、今日も一人で映画を見た。一本みて満足した後、たくさん気になっている映画の予告編を見まくった。

正直僕は予告編だけで泣ける人間なので、そこでだいぶ涙が出た。

ふと気づいた。予告編はたしかに感動シーンが要約されていて感動するし、魅力的に映る。でも、映画中の起承転結やら、なんでもないシーンや苦しいシーンを共にするという体験は、時間をかけてゆっくりと味わうことしかできない。どんなに頑張っても、技術が発達しても、世界の中へ入り込み、体験することは時間をかける必要がある。

ただ、予告を見て、そこから映画を見ようと決意することは、覚悟がいる。いまから2時間、本気で映画の中へ入り込んで体験するには、それなりの時間と労力がかかる。当たり前だが、そこまでしないと映画を本当に楽しんだとは言えない。


話を戻すと、旅というのもまさにそうで、その国に住んで、起承転結、喜怒哀楽、その他良いことも悪いこともすべて経験したうえで、感動することこそが本質であると思う。しかし、それにはもちろん覚悟を必要とする。覚悟のための予告編をみる期間もある程度は大事だけど、いつかはその国を本気で体験してみたいと思う。

きっと地球を遊びつくすにはあまりにも人間の命は短い。だったら今、全力で飛び込んでみたらいい。