2020年の振り返り

2020/12/31 11:52
昨日は雪が降り積もった。今日は晴れて、山の雪景色が輝いている。
今日という素晴らしい日に、2020年を意味づけしよう。

2020年は、「信じること、勇気」について考えた日々であった。

自分を信じると決めた、2019年末、でも一体それはどういうことだったのか。勇気を持って大学をやめたが、とにかくくじかれ続けた一年だった。それは信じるということの真の意味を理解していなかったからだ。

信じるということは「そうだと決めて目をつぶってでも走ること」だと思っていた。でも違う。信じている人というのは、もっと自然な流れだ。自然な流れというのは「自力」では達成できないことだ。僕は自力で自分を信じようとしていた。

1月2日、ジョージアへとんだ。すべての人から頭がおかしくなったと思われた。俺も頭がおかしいと思った。着いてから新しい生活が始まったが、ひたすら不安定な精神状態だった。それもそうだ。自力で、自分や世界を信じようとしていたのだから。「もっと信じなければ」「もっと信じたい」「もっと世界は自分に優しいはずに違いない」と。

4月からいいかねPaletteに住んだ。すべてが空回りしていた。アーティストにもなれなかった。何事もうまくいかなかった。もう休みたかった。

そのまま七月末には山奥へ。

コロナや、親のこと、どうしてうまくいかないんだって、悔しかった。腹を立てた。信じていたのではない、僕がただ期待していただけなのだ。

最近わかったこととして、「実はすべての人の願いは叶い続けている」ということがある。それは「世界はすべて勘違いでできている」ことを知ったからだ。

「所有」という概念がある。お金を所有すると人はいうが、それは事実単に紙切れである。土地を所有するというが、それは手の中に入りきらないし、証明ができない。所有の証明として人は紙切れを発行するが、もっと訳がわからない。でもそれを「信じて」いるから人は「所有」だといいはる。これを読んで怒る人がいるならそれは相手に対して「信じている」ことを期待しすぎている。僕はネイティブアメリカンが「所有」という概念がなかったという意味がようやくわかった。

「信じる」からそこに存在がある。実際に世界に発現する。それは自力ではない。「お金があるんだ。絶対に」と信じながらおそるおそるレジでお金を出す人はいないであろう。みんなが信じているから安心してお金を使うことができる。

「もっとお金が欲しい」と願うことは「お金がない」ことを信じている。信じていることが具現化して「お金がない」を体験できる。

「アーティストになりたい」は「アーティストではない」を信じている。信じていることが具現化して「アーティストになれない」を体験できる。

願いとは信じていることの表明であり、信じていることはすでに叶っている。

じゃあ今すぐに「信じる」ことで願いが叶うのか?それは自力である以上、

無理なのだ。

「お金がある」「自立できている」「アーティストである」そうやって一個ずつ日々を通して充足であることを確認していく。「今日もありがとう」と思うことで充足であることは他力に他ならないと気づいていく。

「お金がある」「自立できている」「アーティストである」なんて、とうてい思えないような日々もあった。苦しすぎた。でもそんなときは感情をそのままにして吐いた。苦しいときは思いっきり苦しんだ方がいい。苦しんだ分だけ振り子のように楽しい日々もやってくる。そのままに受け入れることも大切だった。

この世界はこんなに多くの色があるのか、知らなかった。正義と悪のひしめき合う、白黒テレビの世界から、すべてが色づいてまぶしいカラーの世界に少しずつ変わってきた。

2020年、ありがとうございました。

けついた

おなかが痛い。今日は相方不在の一人飯。ちょっと料理したくなったので、タイ料理のパッタイ2人前を手に取った。豚肉とキャベツを大量に炒めて、ゆでておいた麺を投下。溶き卵を別で炒めて投下。ついてるソースとチリパウダーをぶちこんでまぜたら完成だ。この2つで一気にパッタイになるからまじですごい。

しかし2人分できてしまった。肉とキャベツがかなり適当なのでそれ以上の量あるだろう。そんなやつをついつい全部食ってしまった。しかもなんかチリソース多すぎたぞ?

無事に腹痛に襲われた。チリソースのカサイプシン、一定量以上を摂取するとケツにくる。いてええええええええ!

スムーズに流れるために僕は完成しない

完璧になんてなるな。完成なんてするな。

ずっとずっと「なんでもない」からこそ「なんでも」経験ができてしまう。この宇宙のすべてが僕という人生を経験するために生まれたのだとしたら、完成は目指してはいけない。目指さずとも完成するから。

最近は山暮らしのなかで初対面の人に会うと、自分のことを「人です」と紹介してしまう。

音楽家、アーティスト、デザイナー、VR、山暮らし、ニート、ブロガー、という活動も確かにある。それはでも完成しない。完成を期待していない。自分にも世界にもさほど期待していない。自然の流れに任せている。それが最も多くを経験できる。

だからといって他人へ隠すこともしない。むしろ明確に、活動ごとにアカウントを分ける。わたしはこれです、を記号として示す。どうせ他人は「人」であるカオスな僕のことを理解しようとしない。僕も理解されることを期待していないから、わかりやすい記号を流し込んであげる。だってそれが一番スムーズに流れるから。

流れを止めない。でもそれを自力ではしない。自力でできることなんてつまらないから。

狂気?

狂気とはなにかについて考えた。たとえば大麻合法な国でバンバン大麻すっている動画を日本という大麻が違法とされている国でテレビで流したりすると、多くの人は狂気だと感じるだろう。そのようなものだろう。
正しいと思い込んでいること、信じているものが壊されるような気持ちになるものってのは狂気を感じてしまう。絶対的なものではない。あくまでも人個々人のそれぞれの感じ方としての問題であるということ。

自分の中で比較的狂気的だな~と思うことは誰しもある。僕はブレイクコアを作っているが、ある人には狂気と映り、ある人は熱狂的に好きで毎日のように聞いてくれる。これは狂気の特徴でもある。マジで世界中を探してうまいことマッチングできたら、狂気は狂気ではなくなる。

でも間違えているまま放置していると周りに被害が及んでしまう。多分、それに気づけない。でも多分気づかなくてもいい。自然に、離れていくだろうから。自然状態でいれば、離れたり、自分が調節できたり、勝手に流れる。自然状態は、健康であることが条件だ。健康だと流れやすい。やはり健康で有ることが大事だな。

散文

昨日、人が議論している間で、とても何か言いたくなった。

アドバイスというか、その怒りや悩みを解決できそうだというある程度の確信があるような内容を伝えたくなった。いつもならそこでいきなり突っ込みを加えちゃって、なぞに論破してしまう。いや、それで大きな発見を得ることができる人もたくさんいるんだけど、それが何だというのか。自分で見つける答え以外本当に意味はない。いや、意味はある。自分で見つけたと思っていることも何度も何度も言われたり聞いたり、感じたりしただけなのだから。

ああ、今日書きたかったことがうまく文章にできなかった。難しいんだよな、結論にもっていくのが。自分の中で書きながら疑ってしまう。発散してしまう。

それでいいんだろうけどな、最近はそう思う。あくまでも自分のためにね。

正しい!と断定したときに「本当に?」という自分がでてきてくれる。今は人生に余裕があるから、ありとあらゆる物事を疑うことに労力を割くことができている。すべてはうまくいっているから大丈夫だ。

今日は低気圧で何もかもうまくいかないし。それでいい。

あめのひは晴れの日にはしないことをしよう。天気に合わせて気持ちがいいことをしよう。映画鑑賞かな。アニメでもみるかな。PSPなんてどうだろう!久々にやりたくなってきちゃうな。だめな日はだめだ~~っとしてたらいいさ。それはそれで結局たのしいんだから!

VRで狂う

狂う!くらいに最高に楽しいぞVRクラブイベント

今日も一人で山奥で超盛り上がってしまった、みんなで最高な曲かかった時にサイコーって言うんまじ楽しい

1000円カットすげえ

2020/12/25 16:56

今日は3Qカットというゆめタウン内にある感じの1200円カットな場所で散髪を行った。まーじで面白すぎたのよ。なんでかというとね、まずはさみしか使わねえんだわ。これはあれだよ、土日にお父さんやお母さんが子供の髪を切ってくれる感じのやつだ!

あれを代行しているのだ!

まじでこれは散髪屋さんではない。美容院ではない、カット屋だ!!!

カット屋は親からしてもらったような気軽な、ささっとカットを代行している。これで十分だわって思えちゃえばもう美容院なんていけなくなっちゃうな。中学生みたいな頭になるけど、十分なんだよな、いつも帽子とかかぶってていれば。

ファッションに興味ないやつの髪をほどほどのクオリティーで、素人クオリティーで切る。それだけで時給何円という仕事を生み出しているわけだろう?本当にすごくないかそれ。すごすぎないか。マリオカートじゃないか。マリオカートはマリオカートで対戦がしたい人同士をマッチングさせる。暇人が暇人同士で相手をし合っているのだ。これは本当に美しい。